マレーシアで最も古い井戸であると言わるハンリーポーの井戸(Hang Li Po’s Well)。
マラッカの三宝山(Bukit Cina)にある有名な史跡の1つです。
この記事ではハンリーポーの井戸や三宝山の見所について紹介します。
Hang Li Po(ハンリーポー)とは?
ハンリーポーの井戸(Hang Li Po’s Well)について触れる前に、ハンリーポーの概要について簡単に紹介します。
マラッカの君主に嫁いだプリンセス
時代は中国の明。
明の永楽帝の命により航海の指揮を任せられた鄭和(Cheng Ho)が、その航海のなかでマラッカを訪れ、これをきっかけにマラッカ王国は明朝に朝貢するようになります。
建国まもないマラッカ王国がアユタヤ王朝(シャム)の侵攻から王国を守るために、中国の庇護を求めたことが朝貢が行われるようになった背景にありますが、中国明朝とマラッカ王国のつながりをより強固なものにするために、マラッカの君主(スルタン)であるSultan Mansur Shahが中国から迎えいれた妃が漢麗寶(Hang Li Po)になります。
中国文化大革命により明朝の歴史資料が失われ、中国側の史料に漢麗寶に関わる記述が残っていないことから、漢麗寶(Hang Li Po)は皇帝の娘ではないという説、そもそも漢麗寶(Hang Li Po)は存在しなかったという説などを唱える人もいますが、通説としては漢麗寶(Hang Li Po)は皇帝の娘であったとされています。
三宝山(Bukit Cina)とハンリーポー
ハンリーポーの井戸がある場所は、中国語で三宝山(三寶山)と呼ばれています。
500名を超える従者と共にマラッカに嫁いできたハンリーポー(Hang Li Po)一行のために、マラッカのスルタン(君主)が居住地として与えた場所が三宝山になります。
三宝山はマレー語でBukit Cinaと呼ばれていて、Bukit(ブキッ)は丘、Cina(チーナ)は中国や中国人を意味します。
マラッカのハンリーポーの井戸
ハンリーポーの井戸は、三宝山にある宝山亭と呼ばれるお寺の横にあります。
君主がハンリーポー専用の井戸にするように命じたところから、別名でKing’s Well(中国語で王井、マレー語でPerigi Raja)と呼ばれています。
ハンリーポーの井戸は当時の主要な水源であり、マラッカを襲った複数回の干ばつの際にも水が枯れることはなかったという伝説があります。
井戸が造られたのは、ハンリーポーがマラッカに嫁いできた1459年。
その後、マラッカを統治したポルトガルや、それに続くオランダもこの井戸を主要な水源として使用した歴史があり、特にオランダは井戸の重要性を認識し、敵から井戸の水に毒を入れられることを防ぐために、井戸の周りに防壁や見張り小屋を作りました。
一方、イギリス統治時代になると、井戸が使われることはなくなり、見張り小屋も荒廃してしまいました。
宝山亭(Poh San Teng Temple)
ハンリーポーの井戸のすぐ近くにある宝山亭(Poh San Teng Temple)。
当初、中国からマラッカに渡ってきた人の多くは、マラッカに身寄りを持たない人々であったため、これらの人々が亡くなった際に三宝山(Bukit Cina)が墓地として使われていました。
マラッカの中華系コミュニティのリーダーであったKapitan(カピタン)の蔡士章(Chua Su Cheong)の提唱により、三宝山で永眠する人々を供養する場所として造られたお寺が宝山亭(Poh San Teng Temple)です。
宝山亭(寶山亭)の建立は1795年。
宝山亭には中央に大伯公(Tua Pek Kong)と虎爺(Tiger God)、左側に媽祖、右側に蔡士章が祀られています。
インフォメーションセンター
宝山亭の奥には裏庭があり、ここのスペースに小さな展示場(インフォメーションセンター)があります。
インフォメーションセンターにはハンリーポーの井戸、宝山亭、三宝山の歴史についての展示物があります。
上記画像は、宝山亭とKapitan Chua Su Cheong(カピタン蔡士章)に関する記述になります。
7回に及ぶ大航海を指揮したことで知られる鄭和(Cheng Ho)についての展示物もあります。
その航海のなかで、何度もマラッカに立ち寄った鄭和(Cheng Ho)は、ハンリーポーがマラッカに嫁ぐ際にも中国からエスコート役となって、旅に伴ったと言われています。
鄭和はマラッカの歴史における重要人物として位置づけられていて、マラッカの色々なところで鄭和の展示物を目にします。
三宝山(Bukit Cina)
ハンリーポーがマラッカに嫁いだ時の居住地、およびマラッカに移り住んだ中華系の人々の墓地として使われるようになった三宝山(Bukit Cina)。
鄭和の一行がマラッカを訪れた際には、三宝山を拠点にしていたと言われ、三宝山という名称は鄭和(Cheng Ho)の初名である三宝(または三保)が由来になっています。
また、三宝山には12,000を超えるお墓があり、古いものでは明朝時代の墓石もあります。
三宝山に現存するもう1つの井戸
三宝山周辺には、鄭和(Cheng Ho)に伴ってマラッカに来た兵士によって造られた井戸が複数あり、これらの井戸は三宝井と呼ばれ、その数は全部で7つと言われています。
井戸のなかには道路建設の整地の際になくなってしまったものもありますが、現存している井戸が2つあります。
1つはハンリーポーの井戸、そしてもう一つが宝山亭の裏庭にある上記画像の井戸です。
三宝山や宝山亭を所有する青雲亭
上記で紹介した三宝山(Bukit Cina)や宝山亭。
三宝山と宝山亭を所有するのは、マレーシア最古の寺院である青雲亭になります。
青雲亭はマラッカの中華系コミュニティの信仰の場であり、かつてチャイニーズカピタンが行政を行う役所として使われていた歴史があります。
1685年に、青雲亭のトップであったKapitan Li Wei King(李为经)がオランダ植民地政府から買い取って墓地にした土地が三宝山で、それ以降、土地の所有は青雲亭になっています。
青雲亭はマラッカのハーモニーストリート(テンプルストリート)と呼ばれる通りにあり、多くの参拝客や観光客が訪れる場所になっています。
日本侵攻時に犠牲になった人々の記念碑(慰霊碑)
三宝山には、第二次世界大戦時の日本軍によるマラッカ占領の際に犠牲になった人々のための記念碑(慰霊碑)があります。
記念碑(慰霊碑)には蒋介石によって書かれた「忠貞足式」の文字が刻まれています。
忠貞足式は「侵攻の犠牲により命を落とした者の忠誠心はその子孫たちの模範となる」…というニュアンスの意味を持ちます。
日本軍がマラッカを侵攻した当時の様子を記載しているものが慰霊碑の近くにあります。
1942年1月15日に侵攻がはじまったこと、1,000人以上が犠牲になったこと、日本軍のやり方が非人道的なものであったということが記載されています。
ロケーション
住所:Jalan Puteri Hang Li Poh, Kampung Bukit China, 75100 Melaka
ハンリーポーの井戸はマラッカ中心部から少し離れたところにあり、オランダ広場から車で10分程度の距離にあります。
まとめ
ハンリーポーの井戸はマラッカを代表する史跡の1つであるものの、歴史に興味がないと、ややつまらないと感じてしまうことがあるかもしれないので、観光日程に余裕がある場合や何度かマラッカを訪れたとこがあるリピーターの人におすすめする場所です。
マラッカ滞在日程がタイトな場合は、セントポール教会、キリスト教会、スタダイス、ファモサ要塞跡などマラッカ中心部にある観光スポット&史跡の見学を優先する方が良いと思います。
以上、ハンリーポーの井戸についての紹介でした!