辛亥革命を率い、激動の時代を生きた孫文。
中国・香港・マカオ・台湾・日本をはじめ、世界に孫文の名を冠した場所があるなか、マレーシアのペナンにも孫文ゆかりの地があります。
それがSun Yat Sen Museum Penang(孫中山檳城基地紀念館)。
辛亥革命前、ペナンに滞在していた孫文がその支持者と共に革命活動の拠点にしていた場所で、現在は博物館になっています。
また、Sun Yat Sen Museum Penangの建物自体は海峡華人のタウンハウスであり、プラナカン文化に触れることができる場所でもあります。
革命活動の基地になった120 Armenian Street
世界遺産エリアの中心部、ジョージタウンの120 Armenian Street(アルメニアンストリート)にあるSun Yat Sen Museum Penang(孫中山檳城基地紀念館)。
イギリスのチャールズ皇太子や中国の胡錦濤氏、ペナン出身の世界的靴職人のJimmy Choo(ジミー・チュー)氏など、様々な要人や著名人がこの場所を訪れています。
Sun Yat Sen Museum Penang(孫中山檳城基地紀念館)の入口そばに広がるエリアはレセプションホール。
このエリアには孫文についての説明やペナンにおける革命活動のほか、孫文を支持した人々についての説明文が展示されています。
以下にポイントをピックアップして紹介します。
孫文の生涯
上記は孫文(孫中山/孫逸仙)の生い立ちを紹介した説明文。
- 1866年、中国広東省の香山県に生まれた
- 10代の少年時代は兄の孫眉(Sun Mei)がいたハワイで教育を受けた
- 香港の学校(現在の香港大学)で医学を学び、広州やマカオで医師として働いた
- 1894年にアメリカで興中会を立ち上げ、政治活動を開始するも、翌年に起こした広州蜂起が失敗に終わり、清朝に追われ日本に亡命
- 日本にいる時に、辮髪(べんぱつ)を止めて髪を切り落とし、口髭をはやし、洋服を着るようになった
- 自身の革命理念を伝え、支持や革命資金を得るために世界を旅した
- 1905年、東京で中国同盟会が成立、三民主義(民族・民権・民生)を唱える
- 日本政府に追われるようになると、東南アジアに活動拠点を移し、当地で暮らす華僑の支持を求めた
…こんなことが記載されています。
1912年、中華民国の初代臨時大総統に任命された孫文。
1906年(1905年という説もあり)〜1911年までの間にペナンを訪れた回数は5回、1910年7月〜12月には、あとから合流した家族と共にペナンで過ごしたと言われています。
東京で結成された中国同盟会はイギリス統治下にあったマラヤ(British Malaya)でも地下組織として機能し、のちに東南アジアにおける中国同盟会の支部がシンガポールからペナンに移されました。
120 Armenian Streetで行われた活動
孫文が支持者と共にペナンの120 Armenian Streetで行った活動は以下の通り。
- 新聞の創刊
- 檳城閲書報社の立ち上げ
- 黄花崗起義を計画する会議の開催
孫文の指示により、1908年に檳城閲書報社が設立、これが中国同盟会の講演や文化活動を伝えるものとして大衆を魅了し、1910年には同盟会機関紙として「光華日報(Kwong Wah Yit Poh)」が立ち上げられました。
光華日報(Kwong Wah Yit Poh)は1910年の立ち上げから現存する長い歴史を持つ中国語新聞です。
檳城閲書報社についての展示物。
光華日報(Kwong Wah Yit Poh)についての展示物。
はじめは「光華報」という名前の革命機関紙が発行されたものの英国政府により禁止され、のちに同盟会の莊銀安(Zhuan Yi’nan) の助けを受けて、1910年12月2日に光華日報(Kwong Wah Yit Poh)を創刊しています。
ちなみに…光華日報はその設立における歴史から、本社を置くペナンをはじめマレーシア北部で有力な中国語の新聞になりますが、マレーシアには星洲日報(Sin Chew Daily)というメジャーな中国語新聞があります。
これはシンガポールのタイガーバーム創業者が作ったものになります。
幾度もの武装蜂起を試みるものの失敗に終わるなか、紆余曲折を経て成し遂げられた辛亥革命。
革命軍が起こした数ある蜂起の中でも多くの犠牲者と出したと言われるものが1911年の黄花崗起義。
この黄花崗起義の計画に関わる会議が行われたのがSun Yat Sen Museum Penang(孫中山檳城基地紀念館)がある場所、120 Armenian Streetになります。
1910年11月、120 Armenian Streetに主要人物が召集され会議を実施、翌年の1911年4月に広州で武装蜂起(黄花崗起義)が起きました。
ペナンで孫文を支持した人々
東南アジアにおける中国同盟会の支部をシンガポールからペナンに移した背景には、孫文を手厚く支える忠誠な支持者がいたからだと言われています。
数ある支持者の中でも中心となるのがペナン支部の中国同盟会と檳城閲書報社のトップを務めた吳世榮(Goh Say Eng)。
実業家であった吳世榮(Goh Say Eng)は自らの財産だけではなく、妻の財産をも革命資金として提供するほど、孫文に入れ込み全面的に支持していました。
家族と過ごした時間
1895年〜1910年にかけて、孫文の革命活動を影ながら支えたパートナーの陳粹芬(Chen Cuifen)。
1910年7月に孫文がペナンに到着すると、孫文を追って陳粹芬もペナンにやって来ます。
のちに、孫文の兄が孫文の最初の妻である盧 慕貞(Lu Muzhen)と二人の娘を連れてペナンに到着し、陳粹芬(Chen Cuifen)を含め、一緒に暮らすようになります。
彼らがその時に暮らしていた家が上記画像にある住宅。
孫文は1910年12月にペナンを離れたものの、孫文の二人の娘、孫娫(Sun Yan)と孫婉(Sun Wan)は1910年〜1912年までペナンに滞在し、現地の学校(St George’s Girls’ School)で教育を受けています。
St George’s Girls’ Schoolは1885年にペナンのジョージタウンに創立した学校で、由緒ある名門校として現在も存続しています。
臨時大総統になる前に立ち寄ったペナン
1911年10月10日、武昌起義が発生した当時、アメリカ・コロラド州のデンバーにいた孫文。
その知らせを受けて、アメリカからイギリスに渡り、上海に戻ったタイミングで中華民国の初代臨時大総統に任命されました。
Sun Yat Sen Museum Penang(孫中山檳城基地紀念館)に展示されている文書によると、マルセイユから上海に帰る途中で立ち寄ったペナンで家族と束の間の再会を果たしています。
たった数時間の再会だったと書かれていますが、意外と知られていない興味深い歴史が記されています。
海峡華人のタウンハウス
Sun Yat Sen Museum Penang(孫中山檳城基地紀念館)がある建物は中国様式に西洋などの要素を取り入れた典型的な折衷スタイルの海峡華人商人のタウンハウスになっています。
ダイニングルーム。
吹き抜けになっている中庭(courtyard)。
二階エリアに続く階段。
建物自体は1880年頃に建てられたもので、中国福建省生まれ&幼少期にペナンに移住した商人の莊長水(Ch’ng Teong Swee)が1926年にこの家を購入して以来、一族の所有下にあります。
現在はCh’ng Teong Sweeの孫娘であり、邱思妮(Khoo Su Nin)、別名Khoo Salma Nasutionさんにより管理されています。
Khoo Salma Nasutionさんはペナンの歴史に関わる本を出版している作家として、またペナンの世界遺産を守る活動家として有名な方です。
建物は何度かリノベーションが実施され、2010年〜2011年にかけて福建省の泉州から熟練の職人を呼び寄せ大掛かりな修繕工事を行っています。
上記は莊長水(Ch’ng Teong Swee)の生い立ちについて書かれた紹介文。
9歳だった1904年に父の莊明才や親族と共にペナンに渡ったこと、父がペナンで2番目の妻・陳燕秀(Tan Ean Siew)と結婚したこと、14歳の頃に父が亡くなり継母や継母の子供たちを支えるために働かざるを得なかった…などということが記述されています。
Sun Yat Sen Museum Penang(孫中山檳城基地紀念館)の入口に掲げられている荘榮裕(CH’NG ENG JOO)という文字。
これは莊長水(Ch’ng Teong Swee)が25歳の時に立ち上げた会社の名前(屋号)になります。
創業当時はペナンのーチストリートにあった荘榮裕ですが、1941年に日本軍の侵略や爆撃により莫大な被害を受け、戦後に現在博物館があるアルメニアンストリートで会社を再開、数ヶ月間商売をしたあと、チュリアストリートに店舗を移しています。
ニョニャの台所
Sun Yat Sen Museum Penang(孫中山檳城基地紀念館)の一番奥にあるスペースは台所になっています。
薪ストーブのほか、1920年代当時に使われていた多くのキッチンアイテムがそのまま保存されています。
キッチンを取り仕切っていたのはCh’ng Teong Sweeの継母である陳燕秀(Tan Ean Siew)。
海峡華人として生まれたニョニャです。
伝統菓子のニョニャクエを販売していた母からお菓子作りを学び、結婚式用のクエ(Kah-Win Kueh)を販売していました。
そのため、キッチンエリアにはお菓子作りに使う道具やニョニャに関わるアイテムが展示されています。
例えば、上記画像の左端にある亀の型は紅龜粿(アンクークエ)に使用するものになります。
現在よく見るアンクークエよりも、もっとリアルな亀の型になっています。
プラナカンの邸宅などに展示されていることが多い上記のバスケット。
福建語でSia Naと呼ばれるもので、食べ物を入れて持ち運ぶ時に使われていたものになります。
結婚式のほか、子供が生まれて1ヶ月経過した時(満月)に配るクエを入れる用途として使われていたもので、満月の際にはアンクークエ・ターメリックライスのNasi Kunyit(ナシクニ)とチキンカレー・殻を赤く染めた茹で卵をセットにした贈り物を親族など親しい人に配り、紅包をもらう…という風習があります。
現在でも結婚式にSia Naを使うところはありますが、満月には簡易化した紙のパッケージが使われることが主流です。
こちらはTiffin Carrier(ティフィンキャリア)。
Sun Yat Sen Museum Penangのロケーション
住所:120, Lebuh Armenian, George Town, 10200 Pulau Pinang
ペナンのジョージタウンには孫文やその支持者に関連したゆかりの地がいくつかあります。
それをまとめたものがSun Yat Sen Museum Penang(孫中山檳城基地紀念館)の前にあるSun Yat Sen Heritage Trail。
軍資金を募るために孫文が観衆に向けてスピーチを行ったPenang Chinese Town Hallのほか、いくつかのスポットがあります。
ゆかりのスポットには上記のように簡単な説明書きがあるので、興味がある人はチェックしてみてください。
ペナンを舞台に描いた孫文の映画
Sun Yat Sen Museum Penangに関連した映画があります。
それはペナンを舞台に孫文を描いた夜明(Road to Dawn)、邦題は「孫文-100年先を見た男」。
日本政府により国外退去を命じられ、賞金首となった孫文が日本を離れ船でペナンに向かうところからストーリーが始まります。
映画では孫文とパートナーの陳粹芬に焦点が当てられ、盧 慕貞やその娘たちはストーリーに出てこなかったり、一部実在しない架空の人物が描かれているものの、孫文と支持者たちがペナンでどんなことをしようとしていたのか?ということを理解することができる良い映画です。
Sun Yat Sen Museum Penang(孫中山檳城基地紀念館)がある場所も撮影に使われていて、黄花崗起義に関わる会議のシーンで登場します。
ほかにも、ペナンプラナカンマンション・ブルーマンション・タウンホール・クーコンシー・スリマハマリアマン寺院・カピタンクリンモスク・E&Oホテルをはじめ、ペナンの有名なスポットが映画のシーンに多く登場し、ペナンという街の美しさが描かれています。
まとめ:歴史を学ぶことができる良い博物館
Sun Yat Sen Museum Penang(孫中山檳城基地紀念館)は隠れ家のようでありながら、歴史的意義のある場所であり、孫文の歴史を学ぶには非常に良いスポットです。
また、孫文の要素だけではなく、ペナンらしいプラナカンの要素があるところも見所の1つと言えます。