ペナンのジョージタウンにある観光スポットの中でも、訪れる人によって賛否分かれる場所がコーンウォリス要塞。
どちらかと言うと、批評の方が大半を占める場所ではあるものの、歴史的観点から鑑みると今あるジョージタウンの要となる場所です。
この記事ではコーンウォリス要塞の歴史&概要について紹介します。
ペナン島のコーンウォリス要塞の概要&歴史
18世紀にイギリス東インド会社により作られたコーンウォリス要塞。
実際には、Francis Light(フランシス・ライト)が、東インド会社のメンバーと共にペナンに上陸した場所に築いた要塞になります。
星形要塞になっているところが特徴で、マレーシアに現存する要塞として最も大きなものになります。
コーンウォリス要塞の英語表記と由来
コーンウォリス要塞の英語表記はFort Cornwallis。
Fort CornwallisのFort(フォート)は要塞(砦)を意味し、Cornwallis(コーンウォリス)はコーンウォリス要塞が建築された当時のイギリス領インド帝国(ベンガル)総督の名前、Charles Earl Cornwallis(チャールズ・コーンウォリス)が由来になっています。
建設当初は木材で作られていた
1786年8月11日、フランシス・ライトが手がけた当初の要塞は、ヤシの木の幹を使った砦柵(さいさく)という非常にシンプルなものでした。
フランシス・ライトは1794年にマラリアで亡くなっていますが、彼の意志を継いで1803年からレンガ造りの要塞にするための建て直しが開始、最終的に1810年に完成します。
この時、かなりの金額が要塞の建て直しに費やされたと言われています。
マラッカの要塞跡にあった材料が使われている?
コーンウォリス要塞の建て直しをしていた時期は、マラッカの要塞が取り壊されていたタイミングにあたります。
マラッカの要塞跡にあった大量のレンガ・タイル・鉄鉱石がペナンに運ばれ、コーンウォリス要塞の土台など、再建築の際に使われている可能性が高いという記述がコーンウォリス要塞内の説明書きにあります。
マラッカのファモサ要塞は1795年にイギリスが取り壊しを決め、1807年に爆破したことになっているため、時期的にはコーンウォリス要塞の再建築の時期と重なり、マラッカの要塞跡にあった材料が使われている可能性は十分あり得ると言えます。
教会や灯台があるコーンウォリス要塞
コーンウォリス要塞のサイトマップがこちら。
広々とした敷地内にチャペル・刑務所・灯台・弾薬庫・大砲などがあります。
少し見にくいですが、上記画像の中央部分にある白いものが灯台。
マラッカ海峡に面する先端部分にあります。
灯台の奥に写っているものはSwettenham Pierに寄港中の客船。
1814年に建てられた弾薬庫。
内部に繋がる通路。
誤爆してしまった時の被害を最小限に抑えるために、厚みのある壁になっています。
見所になっている大砲:Seri Rambai Cannon
コーンウォリス要塞内には、数多くの大砲があります。
そのなかで最も有名なものはマラッカ海峡に向けて設置されているSeri Rambai Cannon。
1600年代に鋳造されたSeri Rambai Cannon。
かつてオランダ東インド会社の象徴となっていました。
1606年にオランダ東インド会社を経由して、オランダからジョホールの王に贈られますが、1613年にAceh(アチェ)がジョホールを攻撃した際に大砲が奪われています。
18世紀後半には、アチェからKuala Selangor(クアラスランゴール)に贈られ、場所を移しています。
1871年、英国籍の船がKuala Selangorを航海している時に海賊の攻撃に遭い、その報復としてKuala Selangorに攻め込み、大砲を奪いペナンに持ち帰ります。
上記の経緯を経て、最終的にコーンウォリス要塞に配置されています。
大砲にまつわる逸話
Seri Rambai Cannonは不思議を力を持つと信じられていて、不妊に悩む女性が大砲の中に花を添えて祈ることで、子宝に恵まれるようになるという言い伝えがあります。
フランシス・ライトについて
今あるペナンやジョージタウンを築き上げたフランシス・ライト。
ペナン島にはフランシス・ライトが眠るお墓もあります。
イギリスからペナンにいきなり上陸したわけではなく、東インド会社の船に乗ってイギリスから同国植民地のインドへ渡ったのち、シャム(タイ)のThalang(現在のプーケット)にベースを作り、さらにマレー半島のKuala Kedahに拠点を移します。
ペナンを手に入れたストーリー
やがてペナンに興味を持つようになり、当時ジャングルだったペナン島をイギリス植民地にして交易の場とするアイディアを東インド会社に提案します。
この提案はすぐには実現しなかったものの、シャムによる侵攻の恐れを感じていたKedah(クダ)の王に対し、軍事援護することを条件にフランシス・ライトとKedahの双方が合意し、1786年にKedahの王からペナン島を得て上陸、Prince of Walesに地名を変更します。
実際には合意に反して軍事援護することがなかったため、1791年にKedahの王がペナン島を取り戻そうとしたものの、逆にマレー半島側のSeberang Peraiまで奪われてしまったという経緯があります。
この時に訴えを起こし、1791年にペナン島のリース(賃貸)料金として年間$6,000(スペインドル)、1800年にはSeberang Peraiの賃貸料として$4,000(スペインドル)、合計10,000スペインドルをKedahに対して支払うという取り決めが交わされたと言われています。
現在まで続いている当時の慣習
不思議なことに、200年以上前の取り決めがずっと継続していて、2018年までマレーシア政府がKedah州に対し、年間RM10,000を支払っていました。
この慣習については、当時のスペインドルの通貨価値に対しRM10,000は少なすぎる、イギリス統治が終わっているのにリース料金を支払う慣習はおかしいなど、識者による様々な意見がありますが、2018年初から年間RM1,000万の支払いに大幅に増額されています。
2021年10月末には、Kedah政府が年間1億リンギットへ増やすように要望していることがローカルメディアに報道されています。
コーンウォリス要塞が観光スポットとして酷評される理由
…こんな点から見学したあとにガッカリする人が多い場所であることも事実です。
私も入場料がかかる時は見学を見送り外から眺めるだけにして、リノベーションの時期にたまたま入場料が無料になっていた時に中に入ってみましたが、この場所にRM20支払うのはやや高いな…と感じました。
要塞の外からでも大砲や灯台は見ることができるので、それだけでも十分かもしれません。
また、このエリアを散策するのであれば、近くにあるエスプラネードを歩いたり、シティホールやタウンホールを見てまわる方がおすすめです。
ロケーション
住所:Jalan Tun Syed Sheh Barakbah, George Town, 10200 George Town, Pulau Pinang
コーンウォリス要塞の前にある大通りはフランシス・ライトの名前を冠したLight Street(ライト・ストリート)と呼ばれています。
ライトストリートにある大きなラウンドアバウトにビクトリアメモリアル時計台があります。
コーンウォリス要塞はこの時計台のすぐそばにあるので、目印にしてみてください。
また、コーンウォリス要塞の入場口のすぐそばには、Swettenham Pierもあります。
タウンホールやシティホール側からアクセスする場合は、コタ・ラマ公園に沿って海に面したエスプラネードを歩いて行くとコーンウォリス要塞内にある大砲が見えるので、さらに奥に歩くと入場門に到着します。
まとめ
観光日程に余裕がない場合や歴史に興味がない場合は、あえて足を運ばなくても良いかな…と感じている場所です。
ただし、ジョージタウンという街の歴史に興味がある人には、一つの起点として意義がある場所なので、興味深い場所になるかもしれません。(私自身は歴史を学ぶという意味では面白いと感じている場所です。)
以上、ペナンのコーンウォリス要塞についての紹介でした!