福建の人々が多いペナンの文化を語る上で、切り離せない公司(コンシー)。
邱(Khoo)、謝(Cheah)、楊(Yeoh)、林(Lim)、陳(Tan)というペナンを代表する福建系一族の中で2大勢力と呼ばれる一族が邱(Khoo)と謝(Cheah)。
中国からペナン島に移り住んだ移民の中でも、かなり早い時期からペナンに渡り当地で開拓を進めてきた、いわばパイオニア的存在の祖先を持つ一族です。
邱一族の邱公司(クーコンシー)が非常に有名ですが、古い歴史を持つ謝公司(Cheah Kongsi)にも見所が満載です。
ペナン島の世徳堂謝公司とは?
正式名称は世徳堂謝公司(Seh Tek Tong Cheah Kongsi)。
通称、謝公司(チャーコンシー)と呼ばれています。
一族のルーツとなる場所
一族の起源は中国福建省漳州府海澄县石塘社。
石塘という場所が一族のルーツになっています。
新天地を求めて中国からペナンへ
中国国内における貧困や社会不安から抜け出すために海外に機会を求め、新天地を築いた中華系移民の人々。
謝公司にある説明によると、謝一族が石塘からペナンに渡ったのは1790年代。
それ以降、先に移住した一族を追って、石塘から謝の人々がペナンに移り住み、当地でコミュニティを作り上げていきました。
謝公司は、ルーツを同じくする一族が集う場所(クランハウス)であり、当時中国から渡ってきたばかりの一族を支える場所として機能していました。
ちなみに、福建省漳州をルーツに持つ邱一族も18世紀後半(1786年〜1800年)には既にペナンに在住していたと言われることから、邱一族と謝一族は時期同じく、古くからペナンに移り住んだ人々であるということがわかります。
謝公司(チャーコンシー)の歴史
1810年*までには既にペナンにクランを形成していた謝一族。(*1820年という説もあり)
ペナンに形成されたクランとして200年以上の歴史を持つことから、ペナンで最も古いまたはペナンで最も古いクランの一つと言われています。
現在の謝公司(チャーコンシー)がある場所は、1828年に一族が土地を購入したもので、1858年から建設をはじめ、1873年に完成したと言われています。
ただし、謝公司は何度か修復工事を行っていることから、現在見る建物は古いままというよりは手入れされている感があります。
チャーコンシーと謝炎(Cheah Yeam)
謝公司の初代代表をつとめた人物が謝炎(Cheah Yeam)。
中国からマレー半島に渡ってきた謝炎は、バタワースにあるBagan Dalamで漁師として生活をはじめます。
その後、ペナン島に渡り、謝公司を作りました。
一族の象徴である寶樹(Bao Shu)
謝公司の提灯をはじめ、色々な場所にある「寶樹(Bao Shu)」という文字。
かつて、謝一族が中国にいた遠い昔、中国の皇帝が謝一族が住む場所の近くでたまたま見つけた木が起源になっています。
その木があまりにも美しかったことから、皇帝により宝の木=寶樹(Bao Shu)と名づけられたという逸話があり、謝一族が自分たちのルーツを示すものとして掲げているものになります。
「寶樹=謝」というように、一族の象徴になっています。
現在の機能
現在の謝公司は、
- 一族の守護神である福候公(Hock Haw Kong)を祀る場所
- 一族の祖先を祀る場所
- 一族の子女に教育手当て(奨学金)を与える
- 一族の未亡人に手当てを支給する
…こんな機能を持っています。
また、春節や冬至など中国系の人々にとって重要なイベント時にも一族を集めた食事会を開催するなど、定例行事を行っています。
上記画像は春節(旧正月)に、謝公司の敷地内で披露されているライオンダンス。
謝公司(Cheah Kongsi・チャーコンシー)の見所
ここからは謝公司の見所について紹介します。
2階建てになっている謝公司(Cheah Kongsi・チャーコンシー)。
中庭。
1階エリアにある宝徳所。
宝徳所で祀られているのは守護神の福候公(Hock Haw Kong)。
宝徳所のすぐ近くにある神主室は祖先を祀る場所になっています。
2階エリアにあるメインホール。
福候公(Hock Haw Kong)のほか、大伯公(Tua Pek Kong)や大使爺(Tai Sai Yeah)などが祀られています。
メインホールの外はテラスになっています。
謝公司(Cheah Kongsi・チャーコンシー)の敷地一面を見渡すことができます。
広々とした芝生。
謝公司(Cheah Kongsi・チャーコンシー)には色々な部屋があります。
家具室。
休息室。
かつて一族が憩いの場として使っていた場所になります。
上記のほかにも、キッチン用品が置かれた部屋など、色々な部屋があります。
1階エリアには孫文の肖像画があります。
「なぜここに孫文?」と疑問に思うかもしれませんが、辛亥革命前に孫文が革命活動のベースにしていたことのある場所がペナンであり、ペナンには孫文ゆかりの地がいくつかあります。
肖像画近くにあるドアは「孫文が逃亡する時に使ったドア???」という言われているものになります。
孫文がジョージタウンの中華系コミュニティに対し演説を行い、革命資金を募っていたということもあり、政府から追われた時に逃げたドアであると言い伝えがあります。
謝徳順をはじめ、謝一族の有力者の中には孫文を支持し、資金援助していた人もいるので、謝公司の中に孫文ゆかりの地があるのは不思議なことではありませんが、あくまで言い伝えなので本当に孫文が使ったのかは定かではありません。
Interpretation Centre
謝公司(Cheah Kongsi・チャーコンシー)の敷地内には、Interpretation Centreと呼ばれる場所があります。
2013年〜2015年にかけて実施されたリノベーション後に新しく一般開放されるようになった場所で、謝一族の歴史やクランハウス(コンシー)について学ぶことができる場所になっています。
1780年代〜2000年代におけるペナンの歴史に関わる展示物のほか、海峡植民地時代に新たに導入されたコインなども展示されています。
様々な展示物の中でも個人的に面白いと感じたものが、「謝」という姓そのものが使われるようになった歴史を説明したものです。
その起源は紀元前までに遡り、数千年の歴史があります。
説明書きによると、一族の歴史をずっと辿っていくと古代中国の炎帝神農まで行き着くものの、謝の始祖と言われるのは周の時代(紀元前1046年〜紀元前256年)の申伯(Shen Bo)。
周の宣王から謝と呼ばれ土地を与えらたのが申伯で、その土地に住む申伯の子孫たちが謝を姓として使用するようになったことが起源であると記載されています。
また、中国福建省の石塘社を築いた人物は1233年に生まれた謝銘欣(Cheah Beng Him)。
謝銘欣は申伯(Shen Bo)の85代の末裔で、ペナンの謝一族の祖先にあたります。
このように、Interpretation Centreにある展示物にじっくり目を通してみると、かなり面白いです。
壁画も見所
謝公司の敷地内外にある壁には、ペナン観光の目玉とも言えるウォールアートがいくつかあります。
至るところにウォールアートがあるジョージタウンですが、その中でも最も有名な壁画が謝公司(Cheah Kongsi・チャーコンシー)の敷地や付近に描かれています。
それが謝公司(Cheah Kongsi・チャーコンシー)が所有する土地の壁に描かれたArmenian Street(アルメニアンストリート)にあるこちらの壁画。
また、Ah Quee Street側にあるバイクにまたがった少年の壁画も有名です。
謝公司(Cheah Kongsi・チャーコンシー)の内部にも上記の壁画があります。
ロケーション&アクセス方法
住所:8, Lebuh Armenian, George Town, 10200 George Town, Pulau Pinang
正面ゲートはBeach Street(ビーチストリート)に面し、サイドゲートはArmenian Street(アルメニアンストリート)に面したところにあります。
建物へのアクセスはArmenian Street(アルメニアンストリート)側にあるサイドゲートの利用が便利です。
こちらがサイドゲート。
正面ゲート。(正面ゲートは開放されていないこともあります)
謝公司はアルメニアンストリート側から見るとわかりにくいかもしれませんが、ビーチストリート側からだと存在感のある建物がドーンと立っているのが見えるので、道に迷った時はビーチストリート側から探してみるとわかりやすいはずです。
また、正門の斜め前に有名カフェのチャイナハウスがあるので、目印にしてみてください。
まとめ
もし、はじめてのペナン観光で公司(コンシー)を訪れるということであれば、クーコンシーに足を運ぶことをおすすめしますが、クーコンシーに行ったことがある場合は謝公司(チャーコンシー)を訪れてみても良いと思います。
建築物としてはクーコンシーの方が見応えがあり、展示物もクーコンシーの方が興味深いところがありますが、謝公司も学びの場としては良い場所です。
以上、謝公司(Cheah Kongsi・チャーコンシー)についての紹介でした!